1993年の事だった。
高校在学時、クラブでバンド活動をしていた瀧井はその後、カーレース劇団と興味の赴くままに自分の表現方法を模索しつつ、大阪は東住吉にある小さな酒屋でバイトをしていた。
ちなみにカーレースは車を鈴鹿でぶっ壊し金も尽き、劇団はといえば瀧井が入団して僅か半年で解散、93年頃の瀧井は専ら酒屋の外回り御用聞きでオバちゃんの相手ばかりをしていた。
要するに自分の表現方法に飢えていた時期であった。  
そんな初夏のある日、酒屋の主人が瀧井に駒川商店街祭りに余興としてバンドで出てみないかと持ちかけ、渡りに船と瀧井はこの話に乗った。
ドラムに高校時代の友人、佐藤直人とベースにこれまた高校時代の友人だった熊谷の3人でこの商店街の祭りに出た。曲はラモーンズやストーンズのコピーであった。結果はよく憶えていないが久々のバンドに味を占めた瀧井はポツポツと家で曲を作り始めるようになった。
デモテープも作ってみたがその当時瀧井が付き合っていた彼女に2、3回聴かせただけでどこかに無くしてしまった。  
そして秋の事である。瀧井は佐藤から在学中の神戸のとある大学の学園祭に出ないかと持ちかけられた。そこでバンドを本格化させようという話になり、佐藤の大学サークルの後輩だった宝田文太がベースに加入した。
これが第1期ジャカランタンのラインナップだった。
数曲のオリジナル曲とデタラメ英語で出演した学祭は、瀧井のロックへの憧憬を覚醒させるには充分だった。この神戸国際大学軽音楽部には現在も活動を続けるマイアミやboss of nackedが在籍していて、彼らと打ち上げで酩酊した瀧井は居酒屋の3階の窓から路上に放尿した。  
その後、年末から少しづつスタジオでリハーサルを繰り返すようになり、バンド名をジャカランタンと名乗るようになった。ちなみにこの名前は瀧井と佐藤が高校時代在籍した軽音楽部の先輩バンド名からパクったものだった。
日本語の詞も付いたオリジナル曲が5、6曲出揃った頃、 次なるバンドの目標はライブハウスに出演する事だった。
出演するにはまずデモテープだ!との短絡的思考に基づき、大阪は阿倍野にある関西楽器のスタジオでレコーディングを行った。この時のエンジニアはまだ頭にソバージュパーマを施した森下さん(現ダイスPA)だった。「紅の君」「トラフィック」の2曲をレコーディング、森下氏からヤマハティーンズフェスティバルへの出場を薦められ、春に出演した大阪南地区大会では優勝をかっさらった。ちなみにこの時10代だったのはベースの宝田だけだったが。  
4月にロケッツに初出演、その後サンホール、パンセホールと活動の場を広げていき、秋には瀧井が大好きだったファンダンゴに出演した。
余程出来が悪かったのか次に出演するには1年を待たなければならなかったが、漸く定期的な活動の場所を与えられた瀧井は満足だった。
しかしそこから徐々に佐藤、宝田と瀧井の温度差が広がってゆき翌年のメンバーチェンジに繋がるのである。
この年は厄災と転換の年であった。
まずは阪神大震災である。
1月17日のその日、ジャカランタンはベイサイドジェニーで初ライブを行う筈だった。ところが佐藤と宝田はマージャン大会で垂水に居た所を被災、交通が寸断された神戸ー大阪間を帰ってこれる筈も無く出演は不可能になった。勿論、イベント自体も中止にはなったが。  
そして3月、佐藤が就職を理由に脱退する。ドラマーが少ないと言われる関西の地で、後釜を探すのは至難の業だったが一人だけ心当たりがいた。
去年にパンセホールで対バンしたブルーギルというバンドに居た森田茂であった。対バンした時に意気投合した事を頼りに電話をした瀧井は森田の快諾を得た。この森田茂の強烈なドラムパフォーマンスがジャカランタンを飛躍の季節に導くのだが、それはまだ少し先の話である。  
7月、瀧井肺炎で入院。またもやベイサイドのライブをパスした(この時のイベントタイトルには退屈退治とネーミングが付いていたが、後の深水円氏のイベントと同一のものか不明)。
この時期から、それまでの横ノリ的な楽曲から次第にオルタナ色が強い楽曲へとシフトしていった。  
10月、ベースの宝田文太が脱退。後釜は右往左往の末、森田の薦めで山本佳枝嬢が年末に加入。
ここに第2期ジャカランタンが出揃い、翌年から怪しげな進撃が始まるのだった。